TOP 営業案内 案内図 メニュー
店内写真 観光情報 宿泊情報 リンク
成東いちご狩り情報
下に掲載する観光とはガイドブック等には載らない穴場的観光情報です。
成田山上陸の碑(横芝光町尾垂)
千葉県の3大集客地ディズニーランド・成田空港・成田山ですがそのうちのひとつ、成田山の御本尊様不動明王が平将門の乱を鎮めるために京より運ばれ上陸したのがお隣の光町でした。
 乱平定を祈る不動護摩法を修したところ21日間の満願の日に将門が討たれ、乱は平定されたそうです。乱平定後尊像を再び京に運ぼうとしたがビクとも動かなかったのでそこにお堂を建てたのが成田山新勝寺のはじまりだそうです。(詳しくは成田山公式ホームページをご参照ください。)

上陸の碑 入り口

仁王像
四社神社(横芝光町屋形)
現在の四社神社がある場所に、平高望(桓武平氏の祖)が政務所を設け子の平良兼を住まわせ執務にあたらせた。そこに屋形を置いたので地名がそのまま屋形になったそうです。
 良兼は将門の伯父で、その娘を将門が強奪したと言う史実からNHKの大河ドラマの中でも、我が地「屋形」が出てきています。そこに郷社として存在するのが四社神社です。九十九里・浜の七福神の布袋様も置かれております。
骨董ブームの影響から太鼓が盗まれそうになりましたが、あまりの重さに運びきれず隠していたところを発見され、事なきを得ました。きっと災難除けのご利益があるのでは!
 神楽奉納が正月第三日曜日に、そのほか海水を大鍋で沸かす湯立神事・潮祭り等が行われている。
布袋様神社本殿
五所神社(山武市蓮沼 川面)

 お隣蓮沼村の郷社 1175年(安元元)の創建と伝えられる。1189年(文治5)に、奥州征伐を終えた源頼朝が鎌倉への帰途に立ち寄り、武運長久を祈ったという。毎年8月の第1日曜に行われる五所神社例祭では、2台の神輿が五穀豊穣を祈って村内を練り歩く。
 日光東照宮を建立した宮氏が作った本殿(写真右)
坂田城(横芝光町坂田)

 築城は古く、言い伝えによると良兼の居城であったという。その後弘治元年(1555)井田刑部大輔が築城したと伝えられ、以来俊胤・友胤・胤徳と千葉一族により継がれ、天正18年(1590)小田原落城と共に廃城になったといわれている。(詳しくは余湖くんお城のページをご参照下さい)
 現在では城跡より、梅の名所としてNHK等で広く紹介されている。

海保漁村
幕末の儒学者。門弟には日本初の銀行創立者渋沢栄一、鳩山由紀夫(民主党)の祖父鳩山和夫らがいた。

伊能忠敬
幼少時代を父の生家(横芝町小堤)で育つ。宿泊・測量の記念碑が四社神社近くにある。

横綱・小錦八十吉
慶応3年(1867年生まれ)入幕以来大関になるまで負け知らず!優勝7回
町内に墓地あり。

実家は料理屋「岩城屋」で貸席業も営んだ。父は岩城川と名乗った土地相撲の大関で息子を力士にしようと考えており、明治13年に佐倉へ巡業に来ていた同郷で土地相撲の仲間だった高見山に頼んで入門させた。稽古の厳しさに何度か逃げ戻ったが、父の励ましで 2年後の 3月に決意をして自ら再入門し、稽古に励んで順調に昇進した。
明治16年の夏に奥州の巡業に参加して目的地の栃木県大田原まで歩いた(当時に関取は人力車や馬で先に行けたが若い者は歩かねばならなかった)。太っているので股擦れがして、痛くて堪らず ゆっくり歩いていると仲間達に置いて行かれてしまった。腹が減ってきたが、 5〜 6銭の小遣いは朝に餅を買うのに使ってしまい、一文無し。ふと路傍の地蔵堂を見ると地蔵の前に文久銭(四文銭とも言い、当時は 1枚が 2厘で通用した) 2枚が上がっていたので、「昇進の暁には10倍にも100倍にもして御返ししますから拝借を願います」と手を合わせておいて、それを掴んで飛び出し、近くの駄菓子屋で煎餅 3〜 4枚を買い、桶の水を浴びる程に飲んで取り敢えず空腹を凌ぎ、畑に入って生の玉蜀黍を囓ったり小川の水を飲み、途中の茶店の老人から麦飯を馳走されて、夜に入って宿に辿り着いた。数年後に昇進して 3人引きの人力車に乗って来ると約束通り路傍の地蔵堂に当時出たばかりの真新しい 5銭白銅貨を 1掴み献じたが、茶店は既に無く老人の消息も掴めなかったと伝わる。
幕下の時に羽黒山の麓を歩いている(関取は船で行った)途中で脚気に罹って歩けなくなり、仲間を先に行かせて休んでいたが一向に回復せず、日も暮れて来て身の危険を感じていると、少し遅れて歩いていた幕下の谷の川が唸り声を聞いて見つけ、肩を貸して山を下り、近くの茶店に辿り着いた。重くて それ以上は歩けなかったので、谷の川は茶店の者に訳を話して半円の青札 1枚(50銭)を置いて看病を頼み、高砂の元へ知らせに行った。翌日に迎えが来て小錦は無事に庄内へ運ばれた。数年後に谷の川は年寄 桐山を襲名していたが、博打で散財していたので、大関に昇進していた小錦は50円を桐山に届けてやった。桐山は改めて金を都合して礼に行くと「あの時の御返しのつもりです。御返却には及びませんよ」と受け取らなかった。桐山は すっかり忘れてしまっていたのだった。「さすがは大関に成った人だ。小錦は偉いよ」と桐山は会う人毎に触れ回った。
色白の肥躯に童顔は相撲人形の様で、絵は飛ぶ様に売れた。
立ち合いに行司が「発気」と声を掛けて「よーい」と言い終わらない内に勝負を決めた程に出足が鋭く、猛突っ張りを繰り出して相手が突き返すと変幻自在に動き回る俊敏な取り口。闘志に溢れたが技巧派の取り口を苦手とした。
序二段から幕下の時に地方巡業で初っ切りを行った。
入幕から 3年以上も無敗だった。
明治29年 3月に吉田司家から横綱免許が授与された。江戸時代生まれで最後の横綱。20歳台の横綱は史上初で、30歳台半ば以降の昇進が常識だった当時は騒がれたが、それだけに横綱昇進が実力本位に変わった事を示しているとも言える。五条家からも授与された。
小心で初日の負けが多く、横綱に昇進してから 3場所連続で初日に負けたので、西方力士は初日に小錦との割が組まれるのを念願する様に成った。取組が近づくと落ち着かず、頻りに煙草を吸っていたと伝わる。
東京では、彼に肖って小錦織と命名された織物が大好評を博し、郷里の人達も東京見物の土産とした。
引退後も約 7年間は髷を切らなかった。
温厚で義理堅く謙譲・無欲・真面目で親孝行者だったので人望を集めた。後に取締を務めたが、少しも驕らず平年寄と変わらぬ働き振りで尊敬された。



















  詳しくは、大相撲 記録の玉手箱をご覧下さい

相撲に関する情報満載!

TOPに戻る